🎓 レベル:発展 | 重要度:A(必須)
📎 前提:ブラウン運動と幾何ブラウン運動 | 数理:ブラウン運動(統計)
要点(BLUF)
- 伊藤の補題は、確率過程に対する連鎖律です。 のとき、 の微分には通常の連鎖律にない という補正項が加わります。
- 補正の由来は 。ブラウン運動の二次変分が消えずに残るため、 の2次の項を無視できません。
- GBM に を当てると 。これが ブラウン運動と幾何ブラウン運動 の解と 補正の出どころで、ブラック–ショールズ(第5章)の心臓部です。
1. なぜ普通の連鎖律ではダメか
通常の微積分なら、 の変化は1次まで(テイラー展開の1次項)で済みます。
ところが がブラウン運動で動くと、2次の項が消えません。テイラー展開を2次まで残すと
ここで を代入し、ブラウン運動の特殊な計算規則
を使うと、 が1次の として生き残ります。通常の微積分なら は2次の微小量として無視できるのに、ブラウン運動では が のオーダーで残る——これが伊藤の補題のすべてです。まずこの を数値で確かめます。
import numpy as np
rng = np.random.default_rng(5)
T, N = 1.0, 100000
dt = T/N
dW = rng.normal(0, np.sqrt(dt), N) # ブラウン運動の増分
print(f"Σ(dW)^2 = {np.sum(dW**2):.5f} (理論では T = {T})")
print(f"Σ(dW)dt = {np.sum(dW)*dt:.3e} (→ 0)")
print(f"Σ(dt)^2 = {N*dt**2:.3e} (→ 0)")
出力:
Σ(dW)^2 = 0.99768 (理論では T = 1.0)
Σ(dW)dt = 2.880e-06 (→ 0)
Σ(dt)^2 = 1.000e-05 (→ 0)
出力の意味:増分の2乗を足し上げると で、確かに は平均的に ぶんずつ積み上がります(二次変分が に収束)。いっぽう と は オーダーで実質ゼロ。だから残すべきは の項だけ——この非自明な事実が、確率過程の微分を通常の微分と分ける一線です。
2. 伊藤の補題
以上を整理すると、伊藤の補題が得られます。 に従う過程と、滑らかな関数 について
通常の連鎖律 と比べると、ドリフト部分に が増えています。この余分な項こそ、確率的なノイズが関数の曲がり()を通じて系統的なドリフトを生むという、金融工学で繰り返し現れる効果です(凸性・ガンマ・ボラティリティの価値)。
3. 幾何ブラウン運動への適用
GBM は 、 の場合です。これに を当てます。導関数は
伊藤の補題に代入すると、 がきれいに消えます。
右辺はもう を含まず、 がドリフト ・ボラ の算術ブラウン運動だと分かります。両辺を から まで積分すれば
ブラウン運動と幾何ブラウン運動 で天下りに与えた解が、伊藤の補題から導けました。 は伊藤補正項そのものです。
4. 数値検証
伊藤の補題が正しいなら、対数リターン の平均は ではなく になるはずです。いっぽう価格そのものの平均 は のまま。両方を同時に確かめます。
import numpy as np
rng = np.random.default_rng(2)
S0, mu, sigma, T = 100.0, 0.10, 0.20, 1.0
M = 500000
W_T = rng.normal(0, np.sqrt(T), M)
S_T = S0*np.exp((mu - 0.5*sigma**2)*T + sigma*W_T)
logret = np.log(S_T/S0)
print(f"E[ln(S_T/S0)] (シミュ) = {logret.mean():.5f}")
print(f"(μ - σ^2/2)T ← 伊藤の予言 = {(mu-0.5*sigma**2)*T:.5f}")
print(f"μT ← 素朴な誤り = {mu*T:.5f}")
print(f"Var[ln(S_T/S0)] (シミュ) = {logret.var():.5f}")
print(f"σ^2 T = {sigma**2*T:.5f}")
print(f"E[S_T/S0] (シミュ) = {np.mean(S_T/S0):.5f} (理論 e^(μT)={np.exp(mu*T):.5f})")
出力:
E[ln(S_T/S0)] (シミュ) = 0.08031
(μ - σ^2/2)T ← 伊藤の予言 = 0.08000
μT ← 素朴な誤り = 0.10000
Var[ln(S_T/S0)] (シミュ) = 0.03998
σ^2 T = 0.04000
E[S_T/S0] (シミュ) = 1.10549 (理論 e^(μT)=1.10517)
出力の意味:シミュレーションした対数リターンの平均 0.08031 は、伊藤が予言する に一致し、素朴な とは明確に違います。分散も にぴたり。いっぽう価格レベルの平均 は に一致——**「対数で測ると 、レベルで測ると 」**という対数正規の二面性が、伊藤の補題から定量的に出ています。この のギャップこそ、次章以降のオプション価格づけで「ボラティリティに価値がある」ことの数理的な源です。
⚠️ よくある誤解
- 「 のドリフトは 」ではない:素朴に連鎖律を使うと になりますが、正しくは 。伊藤補正を忘れると、ボラの効果(ドラッグ)を丸ごと落とします。
- は近似ではなく定義上の規則:確率積分(伊藤積分)の枠組みで厳密に正当化されます。二次変分が確定値 に収束する(上のコード)のがその現れです。
- 伊藤の補題はドリフトだけでなく拡散項にも効く:拡散項は で、 の傾きでスケールされます。 では と定数になり、対数価格のボラが一定(時間に依らない)という扱いやすさを生みます。
関連ノート
- 第3章 確率過程と資産価格 目次
- ブラウン運動と幾何ブラウン運動 — 前提:GBM と対数正規分布
- 幾何ブラウン運動による資産価格モデル — 次のトピック:導いた解を価格モデルに使う
- BS方程式の導出 — 伊藤の補題が主役になるブラック–ショールズ方程式
- ブラウン運動(統計)— ブラウン運動の性質の土台
- 金融工学テキスト 全体目次